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Gao Forever!

Gao Forever! ~Preface~ ”育ての親” 故・ 齊藤賀雄さんの思い出 (序)

紙媒体の通信で、2011年から追悼記事として連載を始め、現在も大きな反響のある "Gao Forever!" ~「育ての親」故・齊藤賀雄(さいとうよしお)さんの思い出 を、このWeb版にアップすることにしました。
私の音楽家としての育ての親であり、演奏パートナーであったばかりでなく、いろいろな面で仕事の「相方」であった齊藤賀雄さんは、2010年11月9日に、67歳で病のため旅立たれました。 
いつも精力的で元気に動き回っていた彼が、こんなに早くあちらへ逝ってしまったことを、私はなかなか受け入れられず、自分に言い聞かせるように始めた連載でしたが、たくさんの方から慰めとお励ましの言葉を頂き、これを綴ることが、私にとっても大きな意味のあること、つまり悲しみを癒す作業となっていることにも、気づきました。
彼がフルーティストとして生きたことについては、とても私だけでは語りつくせませんが、私の視点から、彼の姿をお伝えすることは、やはり意義深いことに思えるのです。「Gaoさん」を知らない若い世代の方にも、何か心に響くところがあるような気がして、これを読んで心にGaoさんを留めていただけたら、きっと彼も空の上で、あの人懐こい笑顔で喜ぶことでしょう。
Web版での公開を快諾して下さったご家族に、心より御礼申し上げます。
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齊藤賀雄 Yoshio Saitoh, Flutist(1943.5.1~2010.11.9) 兵庫県に育ち、灘高から東京藝術大学へ。吉田雅夫、小泉剛らに師事し、フライブルク(ドイツ南部)に留学。オーレル・ニコレ、マルセル・モイーズらに師事したのち、読売日本交響楽団へ。首席奏者を経て、東京音楽大学教授。音楽大学のほかに、全国各地で後進の指導や、NHK TV「フルートとともに」講師も。
天上の響きを思わせる音の美しさと、知的なひらめきに基づいた明晰な音楽が持ち味であり、プロデューサーとしての側面も評価が高く、楽譜の監修も多数。人間的な温かみのある的確な指導には定評があり、今なお慕い続ける教え子も全国に多い。

Born in Hiroshima, then grown up at Hyogo prefecture (western Japan), Yoshio Saitoh began to study music while he enrolled at Nada high school one of the most famous prestigious schools. He studied at the Tokyo National University of Fine Arts and Music with Masao Yoshida, Goh Koizumi. Graduated as a highly acclaimed flutist, he continued his flute performance studies in Freiburg, Germany under Aurèle Nicolet and Marcel Moyse. Back to Japan he joined the Yomiuri Nippon Symphony Orchestra, appointed as a Principal Flute, then he became a professor of Tokyo College of Music. Saitoh gave lessons at many other musical institutions; in addition his various teaching styles had a reputation as a mentor of music. He also appeared on TV educational program of flute performance. 
His excellence in performing is his beautiful tone quality of flute like a celestial music, and his clear manner of playing based on his intellectual inspiration. As he was known as a talented producer, he worked on some music books as an editorial supervisor. In teaching, his shrewd advice and heartwarming lesson have commanded the esteem of his pupils still now.
--- He was known as "Gao" by his fans and friends, which derives from his first name (Yoshio) in Kanji .
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齊藤賀雄さん 2002.11.2 移動中、上高地付近にて。Yoshio Saitoh
2011.2.6 お別れの会にて、笑顔の遺影に笑顔で並ぶ。(東京)
2000.6 大阪にて Yoshio Saitoh with his flute (in Osaka)
’89年から愛用のフルート(ムラマツ製) 2011.2 お別れの会にて

『ろここ通信』連載  ~Gao Forever!~ (Serialization) (1)~(3)

Gao Forever!   "育ての親" 故・齊藤賀雄さんの思い出   
                        ---My memories of Yoshio Saitoh as a foster parent of my music

(1) Gaoさん逝く…

「ガオ」の愛称で親しまれた齊藤賀雄さん(元読売日本交響楽団フルート奏者、元東京音楽大学教授)が、こんなに早く旅立たれるとは、想定外中の想定外だった。木管室内楽の編曲のできる人を探しているということで、新宿で初めてお会いしてから20年あまり。深いご縁に導かれたとしか思えない、良いおつきあいが続き、私にとっては、彼は単なる笛吹きではなく、名プロデューサーであり、成長の機会を次々と与えてくれた、まさに「育ての親」であった。
私は実はフルートを持っているので、彼の弟子だと思っている方もいられるようだが、彼の前で吹いたことは一度もない(絶対に吹かないからねッ!と宣言した。)。室内楽グループではあちこち演奏旅行に出かけ、レパートリーがたまるまでは、本当に寝食を忘れるほどに書いて書いて書きまくる日々で、何と人使いの荒い人だろうと思ったりもしたが、今となってはこれが本当に有り難かったと思う。また、楽譜出版の仕事では、現場のフルーティストならではの勘所を、たくさん教えて頂いた。
常に精力的で、やり手の才人という定評のある人だったが、心根はとても優しく、驚くほど繊細な面を持っていられた。趣味は整理整頓という几帳面さは、のちに熱中していられた、山荘での大工仕事などにも反映していたようだ。私とは、自他ともに認める良いコンビだったから、あらぬ方向に想像を膨らませる方もいたようだが、家族ぐるみのようなお付き合いで、父親や恩師を早く亡くした私には、どこか肉親のような感覚があった。以心伝心というか、仕事先で初めて会った人の印象などは、言わずとも汲み取れた。
2009年の春、体調不良で演奏できないと告げられてから約一年半、復活をひたすら願う思いのかたわら、何があっても受け入れてあげなければいけないという、覚悟に似たものがあった。それが仕事の相方の務めである、と。
今年2月の「お別れの会」は、そんな彼のキャラクターや好みを反映してか、明るさのある和やかな会となった。燕尾服姿で寝そべる写真、私も「絶対に泣かないからねッ!」と心に誓い、笑顔で並んだ(写真上)。「よーし、偉いぞ」氏の声が心に届いた。
     ◆たましひと なりて訪なふ 君の声 「僕はあなたの 音楽のなかに居る」
(『ろここ通信』82号 2011.8 より)

(2)編曲(アレンジ)に理解の深かった「ガオさん」
編曲
という仕事を、ひとことで説明するのはとても難しい。実に様々なあり方が混在しているからだ。世の中には、編曲とは高尚な原曲のまがい物だとか、作曲者の下働きだとかいう認識すらあり、実際そんな世界も編曲として存在する。
しかし、いいアレンジとは、音楽の中核を成す重要な部分であり、音楽家としての器量を問われる大事な仕事である。地道であり、表立って評価されにくいので、損な役回りという面もあるが、理解者に恵まれれば、こんな面白いことはないとも言える。私は、作曲と編曲をあまり区別したり、ランク分けをしたりしてこなかったが、それは、私の行ってきた編曲が、原曲を違った楽器で効果的に演奏するための、いわば「改作(adaptation)」であったからかもしれない。
そんな編曲の、論理的かつスピリチュアルな直感を駆使する世界に、深く理解を寄せてくださったのが、「ガオさん」であった。フルートには、ピアノやヴァイオリンに比べると、圧倒的に楽曲数が少ない。「あの曲を、フルートでやってみたい」という思いに応えるのが、アレンジャーの役目である。
私のように、ピアノを弾き、編曲の譜面を書き、オリジナルの作品もある、となると、「わぁー、便利な人だ。」ということになりがちだが、「ガオさん」率いる読響木管首席メンバーの室内楽グループは、そんな私の役割をよく理解し、労に報いるべく尊重し、大切にしてくれた。それは彼らの人柄と器量、そして何より、音楽家としての誇りゆえのことであったのだろうと理解している。
      ◆汝が息の 気配を聴きて 添ふ楽に 阿吽の対の 霊ぞ宿れる
二人で演奏してきたレパートリーに、グリーグの「抒情小曲集」(フルート+ピアノ版:七瀬編)がある。グリーグの音楽にある独特の世界について、よく氏と話した。有名な『ソルヴェイグの歌』などを「暗~い」と思う人もいるけれど、あれは暗いというより、冬に夜が長い地域の特性、つまりは「闇の感覚」だと思う、という私の意見を、氏は折に触れて紹介してくれた。
そのグリーグの生地ベルゲン(ノルウェー南西部)を、昨年、
あえて夜の長い11月末に訪れた。一年の3分の2近くが雨というベルゲン、前泊のオーデンセに続き、またしても風雨に見舞われたが、フィヨルド地形の港町がかもし出す、独特のウエットな情感は、本当に素晴らしく、まさにグリーグ音楽の一つの泉を見たような気がした。氏の奏でるグリーグが闇に溶け込むように、旅の最後の夜が過ぎて行った。
      ◆音楽の 降りてくる そのアンテナで 語りかけよと 夢で言う君
(『ろここ通信』83号 2012.4 より) 

 (3)いつも強気なアドバイス
音楽の世界は、外側から見ると優雅に見えるようだが、実はなかなか厳しい競争社会である。プロの世界はどこもそうだと思うが、一見華やかに見えるせいなのか、思いもかけぬ方角からの鋭い牽制球に「痛ッ!」ということを、しばしば経験する。やられているうちが花、と言えるとしても、打たれ強さを身につけることは必須で、いろいろな知恵で身を護ることも大事だと私は思っている。それでも、悟り足りない私としては、氏に思わず弱音めいたことを口にしたことが何度かあった。
元来、一緒に本番(演奏会)をやるということは、一種運命共同体のようなところがあって、仲間には弱みを見せたくないと強く思うものだ。それで足を引っ張りたくないからである。これはスポーツ選手とちょっと似ていると思うのだが、本番を離れた場で、思わず本音が出てしまった。
そんな時、氏は必ず、あらゆる可能性の中で最も強気なコメントをしてくれた。表情を変えずに、「○○って言ってやればいいじゃないか。」と。あまりの強気ぶりに、私は思わず絶句するのだが、なるほど、そういう立ち位置から見ればいいんだなと思えて、溜飲の下がる思いになった。今思うと、内心不甲斐ない奴だと思っていたのかもしれないが、このパターンは、とても彼らしい優しさと知恵に満ちていると思う。
      ◆ 心配をかけてすまぬと 綴られし 最後のメール 君らしくあり
 昨年に続き、我々のレパートリーであったグリーグゆかりの地、ノルウェーのベルゲンを9月に訪れた。追悼旅行のような去年の旅とは趣が変わり、今年は天気雨のなか、虹も見られ、まだ8時頃まで薄明るい秋の景色を楽しみながら、グリーグの墓前に楽譜(ムラマツオリジナルシリーズNo.35:グリーグの編曲作品を収録,’07年刊)を供え、本場のオーケストラを堪能した。「北欧のショパン」と言われたグリーグの身長は152cmだったという。きっと手も小さかったのだろうなぁと、氏に語りかけながら歩いた。
      ◆ 追悼はもういい 今は思うまま 旅楽しめと ベルゲンの秋
(『ろここ通信』84号  2012.11  より) 
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お気に入りだった「ギロック・セット」(ギロックのピアノ曲よりFl&Pfへの改作版)を演奏する。2001年7月 東京
ベルゲン(ノルウェー)のホテルにて。2011.11.30
94年、移動中水戸駅前にて。親子コンビかと時々言われた。
2012年9月、ベルゲンにあるグリーグのお墓に楽譜を供える。

~Gao Forever!~ (4)~(6)

(4) 仲間かくあるべし
 室内楽というのは、大体多くても5人くらいまでの少人数のグループをいう。なので、音楽の性質も、人間関係も自然と緊密になる。音楽家は、たとえオーケストラに所属していても、基本的には個人単位の業種、つまり一匹狼であり、そんな個性豊かな面々の集まりが、長年安定したメンバーで続くことは少ないかもしれない。それぞれの努力と相性、そしてやはり、ある運命的な必然もあると、私は思う。
「ガオさん」から、読売日響首席グループに声をかけていただいた頃、メンバーは私より一回り以上年上の名手揃いだった。ビビッてなるものかと意気込みながらも、現場では圧倒されてしまい、ひたすら恐縮して、なかなか自分の意見が言えなかった。自分が書いた譜面なのに、これではまずい。彼らも徐々にそれに気づき、日常の場では目上の人に対する態度でいいけれど、音楽の場では対等なのだから、遠慮しないでちゃんと意見を言わなきゃだめだ、とリードしてもらいながら、やっと少しずつ自分の役割が果たせるようになってきた。
西洋人が育ててきた楽器、そして音楽。つまり西洋の楽器を用いる音楽の現場では、欧米人のような人間の距離感覚やコミュニケーション・センスが必要であり、いわば「音楽家人格」を内面に持てないと通用しない、ということだ。これは、外国語を話す時の感覚と通じると思うが、それを自然に身につけられるかどうか、というのが大事なところなのだと思う。
しかし、一筋縄ではいかないのが人間関係。もちろん日常では日本人の良さをうまく生かしながら、柔軟に、絶妙な距離を上手に保ちつつ、本当の大人の付き合いを続けてきた彼ら。「ガオさん」は、私には細かいことはほとんど言わず、最初から本当に信頼して、自由に泳がせてくれた。それは生涯の宝だと思っている。

      ◆過ぎし日の 至福の記憶 永久ならむ 汝が懐の 温かきこと
      ◆君偲び 語りあふ日に あわ雪の 白きおとなひ 僕も行くよと
(『ろここ通信』85号 2013.4 より) 

(5)趣味は整理整頓 
 
氏は、本当に几帳面を絵に描いたような人だった。原則として、すべてオリジナルの譜面で演奏していた我々のグループだったが、ペン書きで仕上げたパート譜(その楽器の楽譜だけピックアップしてある、演奏者が現場で使う譜面)は、すべて新たに自分用に複製し、綺麗に製本して、凝った表紙までつけて、持ち歩いていられた。
「趣味は整理整頓」。コンサートの合間に入る、氏の洒脱なトークでは、このフレーズは笑いを取る?ところだが、氏は本当にそういう細々とした作業を楽しんでいたようだ。用意周到さ、整頓することで自分のものにする合理性。少し専門的な話になるが、実は音楽の情報についても、この整理整頓感覚が重要だと私も思っている。一流の演奏家は、一瞬にして音楽の情報を仕分けし、どこをやっつけるべきなのかを判断するものだ。
氏の几帳面さは、本番前の行動にも現れていた。ガムテープを必ず持参し、ダークスーツなど濃い色の衣装に、ペットの毛などがついているのを丁寧に取る。それも、人の分まで面倒を見るから、皆「ガオちゃん」に頼っているふしがあった。
演奏会では、本番の10分くらい前に「1ベル」というのが鳴る。ちょうどその頃、氏は楽屋で髭の手入れをする。「ジーッ」という髭剃りの音は、私の1ベルだ。そして、演奏家の個性溢れる試し吹きが始まり、氏の美しい音が響き出す。いいテンションが上がってきて、必ずうまくいく、というイメージが湧き上がり、メンバー全員が心を一つに合わせる時だ。ワクワク感と、少しの恐怖と。あとは運命共同体。音楽家は、三日やるとやめられない。
      (スイス上空にて)◆ 飛行機の 窓よりさがす 若き日の 君を抱きし街フライブルク
                             ◆ 快晴の 眼下にとろり ボーデン湖 優しかりし君 強く生きよと
(『ろここ通信』86号 2013.11 より) 

(6)特技は料理!
音楽家には、料理上手な人が多いと思う。性別や家族構成を問わず、だ。
今でこそ育メンだとか主夫などという言葉も生まれ、男子も厨房に入らざるを得ない(?)時代になったが、氏の年代では「男の料理」というと、一般的には少数派だろう。それも、道具に凝って、手のかかる料理をシェフさながらに、というスタイルが大半かと思うが、氏の料理はそれとは一線を画していて、「名前のつく料理はやらない」いわゆる賄いのような、アドリブ料理が真骨頂だった。もちろん、後片付けもちゃんとやる。
私も、氏の料理とコラボした演奏会を何度かご一緒したが、その腕前は本物で、本当に美味しかった。例えば、ザ・キャベツ・コンサート(’93年東京)というのは、キャベツが主体の料理を、前菜から何とデザートまで、凝りに凝って考え、入念に準備をして披露するものだ(ご家族は、試食三昧だったようだが)。整理整頓が趣味の彼らしい合理性には、ドイツ留学時代の生活の知恵も盛り込まれていて、その心のこもった丁寧な仕上がりは、ベテラン主婦のお客様方を唸らせていた。作るプロセスを楽しみ、自分も大いにおいしく食べながら、次々と料理を作る姿は、まさに人生を愉しむ達人、という域であったと思う。
ここで大事なのは、この料理のスタイルは、まさに音楽を作り上げてゆくプロセスと一致する、ということだ。これは、食や調理にはちょっとした思い入れのある私も、まったく同感である。私事になるが、私の亡き父もその年代には珍しく家庭料理が上手だった。父にとっては、現世では逢うことのなかった「ガオ」氏ではあるが、今頃あちらですっかり意気投合して、料理談義をしているかもしれない。病身であった父の食事療法がきっかけで、比較的早い時期から料理を覚えた私も、ある意味少数派なのかもしれないが、氏の料理への姿勢に触れているうちに、とにかくおいしく楽しく、でいいのだと、肩の力が抜けたような気がする。それはまた、音楽においても然り、だ。
      ◆天空に 呼びかけてみる 君の名を 「よく来たね」 その声で答へり (スイス上空にて)
      ◆母となりし 娘御と笑み 交はす時 その優しさが 君と似ている
(『ろここ通信』 87号 2014.4 より) 
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94年 岐阜県可児市でのゲネプロ(直前練習)風景。ファゴットは、山田秀男さん。
98年 チェロの嶺田 健さんも一緒に、”オールド・ローズ”を初演。花の写真を見せながら、作曲者のコメントにマイクを向けるGao氏。(埼玉県新座市)
97年 都内の大学でのクリスマス・コンサートの出番待ち。
05年 料理の合間に、エプロン姿でひと息。(奥多摩 演奏仲間の山荘にて)

~ Gao Forever! ~ (7)(8)

 (7) コラボ仕掛人
Gao氏のプロデューサーとしてのセンス、その個性は、仲間内ばかりでなく、知る人ぞ知る際立ったものだったと思う。そのひとつが、このコラボ仕掛人という顔だ。

岐阜県飛騨清見の道の駅には、洒落たドーム型の良く響くスペースがあって、よく演奏会が開かれる。2002年11月、ちょうど京都在住の画家今尾栄仁さんの個展がそこで開催されていて、共催のような形で我々の演奏会をさせて頂ける機会があった。
今尾さんとはこの日の本番が初対面で、何の打ち合わせもなし。絵の清冽な、精神性の高い世界に包まれ、いい気分でプログラムが佳境になってきたころ、突然「今尾さんのこの絵に、これから七瀬さんが即興演奏で音楽をコラボします。」と、Gao氏のアナウンス。つまりは、いきなりコラボだ。私はこの時期「お題を頂戴して即興演奏」というのを彼との演奏会でやっていて、前日の飛騨古川での演奏会でも行っていたので、予測できない話ではなかったが、さすがに驚いた。が、何となく嬉しい驚きで、実に彼らしいと思った。今尾氏の絵は、主に魚や水などが描かれた釣り人の心象風景という作風だったが、私も面白がりながら集中してベストを尽くした。
演奏後にマイクを向けられた今尾氏は、「風景だけでなく、心の深い情景にもアプローチしてくれたのが嬉しかった」と、感想を述べてくれた。Gao氏はその感想にいたくご満悦で、コラボ大成功となった。今尾氏とはその後も、よき友人として、仲間たちと共に酌み交わす間柄である。(写真:Copyright(C)Eiji Imao 今尾さんのホームページhttp://www.eonet.ne.jp/~eijin/)
  
さらに忘れてならないのが、氏の弟子であり強力なサポーターの貝田嘉子さんが、個展を開かれた時のことだ(2001年5月/東京自由が丘)。お祝いとして、彼女の絵に音楽をプレゼントしたい、ピアノがないから無伴奏フルート(ピッコロも)で何か書けという話になった。貝田さんとは私も長いお付き合いなので、このお祝い話に二つ返事で乗った。
写真の 「春のゆき~献花」 をこれから演奏する彼の表情には、いつも「居酒屋よしッ!」つまりは貝田家のリビングで、バッカスの神と戯れながら、料理談義、時には料理バトルをしてきた「女将よしッ!」さんへの感謝の気持ちが、にじみ出ていると思う。
      ◆めぐりくる 汝が誕生日 指折りて 共に重ねむ たましひの歳
      ◆笛鳴らし 音を探るる 吾の背に 君はいるらし 息合はせつつ

(8) 結城の民話とのコラボ     

氏のコラボ路線は、多岐にわたっていた。朗読会とのコラボがついに実現したのは、‘99年秋、数年前から氏が熱心に通っていた茨城県結城市にある、地元の民話を語るグループ「結城おはなし会」の出演する催しだった。私は20代の頃、何度か劇伴(演劇の付随音楽)の仕事をしたが、その時は劇の稽古にみっちり付き合うスタイルで、本番までにはこちらも、主なセリフは覚えてしまうくらいの密着度だった。しかし、結城でのコラボは、移動の関係もあって、語りと合わせる全体練習は前日とゲネプロだけ。あとは我々がうまく合わせる、という彼らしい合理精神を駆使した、効率よいやり方だった。そりゃ、ちょっと強引なんじゃないかと、私は首をかしげながらも、次第に何となく面白そうな気がしてきて、いっそのこと私のシンセサイザーを運ぼう、ということで話がまとまってしまった。劇などには、シンセサイザーは優れものなので、これはむしろ都合が良かった。
演目は、「源翁和尚と九尾の狐」という、狐にとりつかれた殺生石を、和尚の霊力で浄化するというお話。全体のテーマ曲を作り、「狐のテーマ」や「美少女のテーマ」などのモチーフを作って、台本に挿入。氏はノリノリで面白がっている。全力で集中して、二回しかない練習で様子をつかみ、本番までの空き時間には、民話ゆかりの安穏寺にお参りもして、成功祈願。おはなし会の語り部さんたちはさすがに本番に強く、抜群の集中力で阿吽の呼吸が生まれ、我々も楽しく本番を終えた。クラシックの楽器は決して近寄りがたいものではなく、人々の生きる楽しみの部分と上手にドッキングさせてゆくと、こんなに面白いのだという、彼らしいコラボ哲学が満載のひと時だった。 
 
   ◆ 親離れせよと笑顔で 背中押す 君はさみしさ 隠せぬ人なり (2004年、組曲『巡礼』のオファーを受けて)
        ◆君これを 空より見るや 気を揉みて 安心せよ まずいことは書かぬ

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今尾栄仁 「ひかりふる」 2009年
2001年5月 東京 自由が丘の画廊で、『春のゆき~献花』をこれから演奏する。
2001年7月 東京 美声のトークにも定評があった。

~Gao Forever!~ (9)(10)

 (9) 思い出の松本公演  

「前半は、モーツァルトとドヴォルザークなどの室内楽、これはオケマンらしく燕尾(服)で。後半はぐっと楽しく、七瀬さんのメドレーを、全員セーター姿でやってみたい。」Gaoさんから依頼された、弦と木管とピアノの編曲作品が、私の読響トップメンバーとのアンサンブルの、事実上デビューコンサートとなった。場所は長野県松本市。サイトウキネン・オーケストラなども本拠地としている伝統ある土地だ。

  氏は、赤と黒の柄のとてもお洒落なセーター姿で現れた。今思うと、これはいかにもドイツ仕込みらしい、音楽を「愉しむ」感覚だ。膨大な量のパート譜書きをしながら、練習の録音をずっと聴いていたから、全部覚えていた。私も赤のニットの勝負服。絶対にうまくいくと思った。さすがに全員その貫録と集中力で、本番はしっかり決めるのだなと思っているうちに、最後の曲が終わった。一瞬置いて、何か襲われるような強烈な音が降ってきた。怖いようなそれは、万雷の拍手そのものだった。「これはきっと、演奏者たちの素晴らしい腕前への拍手だろう...」戸惑っている私を、Gaoさんが舞台の前方に導いて紹介して下さり、拍手は迫力を増した。アンコールは、『昨日にベルスーズ(後に改題Lullaby for Yesterdays 過ぎゆく時に)』。じわじわと実感が湧いてきた。私の音楽を必要としてくれる人がいるのかもしれない、と。私はこの瞬間本当に音楽家になった、ということなのだと。
  1989年11月10日。ちょうどベルリンの壁が壊れたニュースを、打ち上げの席で聞いて、何だか不思議な時代の変わり目の中にいる気がしていた。
 
◆口癖は いかなることも 時期ありて 道は開ける 焦ってはならぬ
  ◆その笑顔 訪れ来たり 夕陽射す ロンドンバスに 心満つるとき (2014年 ロンドンにて)

  (10) 味のある先輩  

 
「味のある先輩」。これは、’99年から読響の木管室内楽にGaoさんの声かけで新たに加わって下さった、クラリネットの四戸世紀(しのへせいき)さんが、氏の訃報に接した時に、哀悼の思いをこめて発したフレーズである。
 
Gaoさんの同級生である、ファゴットの山田秀男さんよりもひと世代若い彼にとって、氏は学生時代から、魅力ある先輩として映っていたという。四戸さんは、十余年のベルリン生活を経て帰国され、読響で同僚としてGaoさんと再会された。そのおっとりした、気配りの細やかな人柄は、先輩Gaoさんから見ても好ましかったのだと思う。氏は、自分を慕ってくれる教え子や後輩に、惜しみなく愛情を注ぐ人だった。
「ちょっとポーッとした」というのは、四戸さんがご自分の性格を評してのことだが、私がGaoさんに「今風に言うと、天然ということ」と耳打ちすると、ご機嫌で大笑いされて、時々本番中のトークでも彼を「いじる」流れができてしまった。そんな時も、自然にいじられる四戸さんの協力で、その場が和やかになってしまうのは、双方の人徳だろう。
 「東京音大でご一緒できていたらよかった、可愛い弟子たちとの向き合い方を、Gao先生によく聞けばよかった。もっと料理を教わっておけばよかった…」という四戸さん。その65歳記念リサイタルに、先日お邪魔した(3/27)。 20代の初リサイタルと同じ大曲の渾身の演奏に、氏も空から「四戸、元気だなぁ…」と、エールを送っていたに違いない。

 ◆何処より 叱る声あり 泣きながら 譜面を書くな 音に出るから

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'87年10月 八ヶ岳山小屋コンサートで、初めての共演。
'91年1月 読響の宴会にて。レパートリーが揃って来た頃。
大阪吹田市にて 2000年6月
四戸さんおすすめの奥多摩の蕎麦屋で。左から、山田、四戸、齊藤、七瀬 2005年5月

~Gao Forever!~ (11)(12)(13)

(11) 屈指のアイディアマン

  氏を知る人々なら、たぶん全員がうなずくであろう、そのアイディアマンぶりは、多方面にわたっていたが、最近母校の藝大フルート科同窓会を「上野の杜の笛の会」と名付けたのが彼だったと知り、いかにもと思った。氏の監修で始まった、ムラマツ・オリジナル・シリーズにも、フルートの現場で生きて来られた氏のアイディアから生まれた作品が、いくつもある。初めて書いた三重奏「ウェディング・ブーケ」(結婚式のためのメドレー)は、まさに彼の教え子の披露宴で初演された曲であり、「わらべうたファンタジー ほたる」は、氏が指導していた岐阜のフルート愛好者グループのために書き下ろしたものが土台となっている。「あちこちから蛍がふっと現れて来て、いつしかたくさんのアンサンブルになる感じで」というアイディアは、自然を愛し笛を愛する人々の生活実感を熟知してこその発想だと思い、私もワクワクしながら書いた。
  そんな氏のところには、地方公演の時にも、お弟子さんつながりの来客が絶えず(写真1)、我々も帰りの移動中には、差し入れ(お酒が多い)のお相伴にあずかることもあった。今も「齊藤賀雄」で検索して、私のサイトを訪問してくださる方も多く、氏が人々にフルート音楽を通して蒔いてきたものが、今も確かな根を張り、脈々と息づいている手ごたえを感じることができるのは、幸せなことだと思う。

◆錦秋の 旅路の空に 知らせあり 白き扉を くぐりゆく君 (2010年10月 木曽路にて)

 (12) おしゃべりコンサート 

   氏と知り合った当時は、クラシックのスタイルの音楽会で、トークを演奏者が入れるスタイルは、まだ珍しかった。近寄りがたいイメージを少しでも和らげ、音楽の「愉しみ」を伝えたいという意図で自らマイクを持つのだが、氏は中途半端なことが大嫌いな人だった。「ちょっとできる、小賢しいのが一番ダメだね」「あれはダメ、ファッションだから」というのが口癖だったから、トークを入れるスタイルも、演奏に絶対の自信があってこそ許されること、という確たる信念があった上でのことだった。「聴かせてやる」という態度ではなく、かといって媚びへつらうのではないバランス感覚。音楽は人々の中でどうかかわってゆくべきなのか。それを直に聴衆から学び、共に育ってゆくというスタイル。私もそんな中で鍛えてもらった。まさに、氏の個性が輝くシリーズだったと思っている。
(写真2:読響のおしゃべりコンサート in 入善 チューリップ・コンサート 打ち上げ風景)

 (13) スキーで音楽談義

確か90年代前半の頃、氏はスキーに一時凝っていた。偶然私も同じ頃、結構熱心にスキーをしていて、スキーの話で盛り上がったことがあった。今いるところからどうやって滑り降りるか。コース取り、地形、雪質、雪面、斜度、天候、気温、体調…それらを総合して組み立てていく作業は、まさに音楽と同じ。そうだその通り!スキーは重心の移動が大事だけど、山に行かなくても練習はできる。電車の中でだって、揺れるときにこうやって(私がやってみせる)バランスを取ると、スキーの練習になるんだから。あははは!
数日後。とある割とカジュアルな演奏会のプログラムの、私の経歴のところにこう書いてあった。「山手線の中でスキーの練習をする特技を持ち、それは音楽そのものとなっている。」あ~あ、やってくれちゃって…。私が彼を真の理解者と今も有り難く思うのは、こんなところである。演奏会付きで一緒に滑る計画は、ついに実現しなかったが。
(写真3:2005年5月、奥多摩散策のひととき。大好きな自然の中、おいしい蕎麦屋の前でごきげんな笑顔。)

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(写真1)訪問客と談笑するGaoさん。2000年6月大阪にて。
(写真2)宇奈月温泉にて打ち上げ 2001年4月
(写真3)奥多摩にて 2005年5月

~Gao Forever!~ (14)(最終回)

(14) 幻のビータ・グルメ

「ビータ」というのは、楽器を抱えて移動する演奏旅行のことで、隠語(逆さ言葉)としてよく使われる。本番で最高のパフォーマンスをするのが目的なので、人によって旅のスタイルや好みは違ってくるが、ほぼ全員に共通するのは、行った先々で出会う美味しいものが何よりの楽しみだということ。氏ももちろんそうだった。そのなかで、後々まで語り草となった幻の味が、潮来(茨城県)のナマズ料理である。
茨城県内の演奏会の後、氏の車に3人同乗して帰路についた。「腹へったなぁ~。どこでメシ食う?あれ?山田ちゃん(ファゴット)は寝ちゃったかな?」zzz...「起こすの可哀相だから、もう少し先まで行くか。」
次第に人里離れ、心配な景色になる。zzz..z..?*#! 「あ、起きたか。さてどうしよう、あの店やってるかな?様子見て来てよ。」私が偵察する。「和食のきれいなお店で、値段もお手頃!」 
腹ペコの3人が恐る恐る頂いた和風の鯰定食は、新鮮な白身魚のさっぱりした美味の世界。「お、うまい!」「鯰ってこんなにうまいのか!」と歓声を上げつつ平らげた。
それきり、二度とあの味に出会うことも噂を聞くこともなく、あれはきっと幻の味だったんだ、ということになった。
(写真1: 94年秋、紹興酒を仲間で奪い合いながら中華料理を愉しみ、明日の本番への英気を養う。)

 (最終回) デンマークに ガオさん あらわる? 

いつも元気で早起きで、早朝に届くメールの到着時間が少し遅くなり、あれ?と思い始めた頃、いつも前向きで勢いのいい言葉に珍しく弱気なフレーズが混じり、何度打ち消してもぬぐえなかった不吉な予感。私は氏の病床を見舞うことができぬまま、訃報に接した。そんなことありえない、と抵抗する日々。自分の大切な一部がもぎとられたような痛み。「立ち直れるだろうか」という恐怖と不安…でも、ガオさんは天に上りながら、「どうか悲しまないで」と、私に繰り返し訴えていたのだと思う。
 あれから九年。氏の遺してくれたものが、私の中で血となり肉となって、雄弁に語っていることに一番驚いているのは私自身かもしれない。たくさんの方々に助けて頂き、私は、どうにかガオさんに顔向けできるくらいに再生しつつあるのかもしれないと思う。「いのち」というものが本質的に持つ回復力というのは、こういうことかとも思う。
 デンマークで、不思議な出会いがあった。あ、何かなつかしい感じ…そう、これは昔ガオさんと出会った時のような…この人はデンマークのガオさんなのかな、という感じがふとよぎった。その人はフルーティストではないけれど、何だか氏が宿っているような…。そんな話を奥様にメールしたら、「デンマークですか?いい所に居ますね。」と返して下さった。

(写真2:このサイトのトップをずっと飾っている画像で、額は読売日響欧州公演のお土産に氏から頂いたエッチング。背景はデンマークのテキスタイル・デザインから。)

◆「只楽」と 刻まれし墓碑 風の舞ふ なつかしき地に 君は眠れり(何度も一緒に演奏会をした新座市にある墓所にて)  【 完 】


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写真1:'94年秋 水戸四川飯店にて。これはナマズではありませんが。
写真2:Gaoさんから、読響ヨーロッパ公演のお土産に頂いた額。

Gao Forever! ~Epilogue~ と初出一覧

Gao Forever! ちょっと長めのエピローグ

 2020年11月で、ガオさんこと齊藤賀雄さんが旅立たれてから、ちょうど10年になります。この歳月が短かったのか長かったのか、どちらとも決められない思いが、今あります。
 本当にいつもお元気な印象だった氏はきっとご長寿に違いないと予想していた私は、混乱を整理できないまま、渦巻く感情の波にもまれながら、紙媒体のニュースレター『ろここ通信』に、氏の思い出や覚えておきたい大事なことを、無我夢中で書き始めていました。そして8年が経ち、15回の連載を閉じました。まだまだ思い出は尽きないのですが、やはりこの辺で一区切りにすることが、新たな向き合い方へのスタートであるような気がしてきたのです。「そろそろ卒業したら?」なんて声も空から聞こえてくるような気がして。

 記事の中にあるように、氏は本当に優しい人で、私とは仕事の上ではかなり近い距離でいろいろな行動を共にしましたが、いさかいのようなことは一度もありませんでした。私がだいぶ年下だということへの配慮もあったとは思いますが、お互いに内心「こいつめ」と思うくらいはあっても、仕事の相方という運命共同体のあり方について、氏とのコンビネーションから学んだものは数え切れず、これらは生涯の宝だと思っています。

 実は本編に書けなかったエピソードがあります。氏は時々酒量が過ぎることがあり、活動を始めた初期の頃、ある演奏会の打ち上げで氏がしこたま「トラ」になられたことがありました。私は初めて氏のそういう姿を見て驚いたのでしょう、少し厳しい態度に出てしまったことがありました。今から思うと氏も驚いたのかもしれませんが、少し経ってから仕事の場でお会いした時に、とても寂しそうな表情で「あなたは酔っ払いがきらいなんだ」とポツンと言われたのです。これはしまったと思いました。これは彼が弱さを見せたということだったのだ、いつも強気でカッコイイ「ガオさん」でいることに疲れて、時には羽を伸ばしたくなることもあるのだ…と瞬間悟り、胸が痛みました。当時私も若かったとはいえ、こんなことではダメだと自分の狭量を恥じる思いでした。以後、酒量が進むことがあっても、私は内心ハラハラしながらも見守ることにして、氏も私の顔色をうかがいつつ、マイペースで飲むようなパターンになりました。

 こんなに早く旅立ってしまうのなら、もっと優しくしてあげれば良かったと思う時もありますが、こうして死別を悼み、思い出を語り残すことができるような縁に恵まれたことは、考えようによっては最高に幸せなのかもしれないとも思います。

 最後に、連載を快諾し応援して下さったご家族に、心からの感謝を捧げます。
ガオさん、本当にありがとうございました。永久に安らかに、Gao Forever!
(2020.11.28 没後十年によせて。)

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(序)                         2014.11.9
(1) Gaoさん逝く…                  2011.8 (ろここ通信 82号)
(2) アレンジ(編曲)に理解の深かった「ガオさん」   2012.4 (ろここ通信 83号)
(3) いつも強気なアドバイス              2012.11(ろここ通信 84号)
(4) 仲間かくあるべし                 2013.4 (ろここ通信 85号)
(5) 趣味は整理整頓                  2013.11 (ろここ通信 86号)
(6) 特技は料理!                   2014.4 (ろここ通信 87号)
(7) コラボ仕掛人                   2014.11 (ろここ通信 88号)
(8) 結城の民話とのコラボ               2015.4 (ろここ通信 89号)
(9) 思い出の松本公演                 2015.12 (ろここ通信 90号)
(10) 味のある先輩                   2016.4 (ろここ通信 91号)
(11) 屈指のアイディアマン               2016.11 (ろここ通信 92号)
(12) おしゃべりコンサート               2017.7 (ろここ通信 93号)
(13) スキーで音楽談義                 2017.12 (ろここ通信 94号)
(14) 幻のビータ・グルメ                2018.8 (ろここ通信 95号)
(最終回) デンマークに ガオさん あらわる?       2019.12 (ろここ通信 97号)
ちょっと長めのエピローグ               2020.11(ろここ通信99号 2021年8月)

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