Comments | 音楽、編曲、作品への思い
編曲、音楽への思索、楽曲にまつわる背景など、七瀬あゆこの音楽活動をめぐる文章を掲載しています。
MENU
編曲、音楽への思索、楽曲にまつわる背景など、七瀬あゆこの音楽活動をめぐる文章を掲載しています。
とても面白くて、奥が深いんだけれど、なかなか理解されにくい「編曲」というしごとについて、日頃感じていることや、過去にコメントしている記事などを、ご紹介します。
はるか昔の記事は、我ながら「若いなぁ~!」と思い、ちょっと恥ずかしいものもありますが…。
アレンジとは、音楽の「演出」のことです。質疑応答風に(FAQ風に)、頑張って一言でいうと、こうなります。演奏会などでこうお話しすると、まだ何となく「?」という表情の方も多くいらっしゃるのですが、さらにくだけた言い方をすると、アレンジとは、音楽の「デザイン」の部分をいう、これならピンとくるでしょうか。
子供の頃、きっとほとんどの方が歌った「かごめかごめ」。
ちょっと今ここで、口ずさんでみて下さい。それに手拍子を入れてみる。
歌だけの時と、雰囲気が変わり、少しだけ世界が変化したと思いませんか?
とてもシンプルですが、これがアレンジの第一歩です。(手拍子のパターンを変えてみたくなったり、そのへんのお茶碗なんかも叩きたくなった方は、アレンジャーの素質あり、です!)
とても単純なものから、複雑で難しいものまで、千差万別あるアレンジの世界。意外と身近に感じることができるのです。(2015.7.4)
編曲(アレンジ)に理解の深かった「ガオさん」はこちらへ → Gao Forever!
(『ろここ通信』 No.83 2012.4月発行 より 連載”Gao Forever!” (2)から)
…(河合隼雄先生の)著作のなかでは特に、ユングの考えを土台に日本での臨床経験に基づく現場に即した論考を展開されている、ヨーロッパ偏重でない「日本発」であるところと、患者の声を聴くというカウンセリングのプロセスが、私が長年手がけてきた「アレンジ(編曲)」に似ているところに惹かれた。
アレンジは特にクラシック業界では現場のニーズが多い割には、その質が正当に評価されているとは言い難く、曲のたましいに耳を傾け続けて来た私には溜飲の下がる思いもあった。
(『ろここ通信』No.80 2007.11月発行 より 「たましいの うたを」~河合隼雄先生の旅立ちによせて~から抜粋)
この部分については、「えっ!?何、それどういうこと??」と思っていらっしゃる方も多いと思いますので、補足します。
アレンジには、本当にいろいろなあり方や方法がありますが、私が今まで手掛けてきたものについては、まずアレンジの元となる曲を「とにかく聴く」ことが大切だと思っています。
もちろん聴くといっても、演奏の好みや出来栄えなど、表に出てきたものには様々な違いがありますので、ここでは実際の音というより、音の向こうにある曲のたましいというのか、本質的なものを聴き取ることが一番大切ではないかと思っています。
そして、アレンジする先の編成(例えば、フルート三重奏など)をイメージしながら、ただただ聴く。
無心になって聴いているうちに、ポンと出てくるのがアレンジ。私はそう思っています。
自分の手でああしよう、こうしよう、と画策?したりせず、曲の語るものにひたすら耳を傾けていると、方向が見えてくる。これが、河合隼雄先生の言われるカウンセリングのプロセスと似ている気がして、何だか「我が意を得たり」と思ったわけです。
(ご興味のある方は、ぜひ河合先生のご著書をお手にとってみて下さい。大半が読みやすく書かれています。) (2014.12.22)
…アレンジという仕事に対しては、まだまだ「他人のフンドシで...」のような見方が多く、作業面ばかりが指摘され、その音楽的な面については、「玄人受け」の世界にとどまり、一般的評価は低い。「アレンジ」に陽の当たる時代がくるかどうかはさておき、アレンジの良し悪しについて。
☆奇をてらった、いかにも「凝ってます」風は、だいたい×。(残念なことに、この手のがすごいアレンジだと思ってる人が多い。アレンジに大切なのは、節度というセンス!)
☆原曲の細部に、がんじがらめになっている「作業アレンジ」は×。(成功しているアレンジはおおむね、原曲の「気分」を生かしている。)
すべての曲が「アレンジ」に向いているわけではないことも、重要なポイント。
(『ろここ通信』 No.36 1994.3月発行 より)
歌などのメロディー(単旋律)に、音を足して行くことで、より大きい編成にして華やかにする「足し算」のアレンジと、オーケストラやピアノなどの元々音がたくさんある楽曲から、エッセンスを抜き出して、小さい編成にまとめる「引き算」のアレンジ。
概して引き算の方が、ずっと難しいと言えます。休符が勝負、みたいな世界かもしれない。
これはきっと音楽ばかりでなく、絵画や造形、そして文学などにも当てはまるのだと思います。 (2015.1.12)
縁あってかかわることになった物事、ましてや「お役目」のような気持ちで取り組んできた仕事などについては、その原体験をさぐる気持ちに、誰しも一度はなるものではないかと思っています。
私の場合、このアレンジ(編曲)についてはっきり意識したのは、たぶん中学生の初め頃だと思います。自分がアレンジをずっとやっていく立場になるだろうという、予感のような(お告げ?のような)体験がまずあり、その後まもなく強く惹きつけられた「アレンジ」のスタイルが、セルジオ・メンデスとブラジル'66(「マシュ・ケ・ナダ」の入ったアルバム)だと記憶しています。もちろんリアルタイムでのヒットは知らず、すでにスタンダードとなっていたこのアルバムを聴いたわけですが、セルジオ・メンデスの素晴らしいセンスと、独立したジャンルとしてのアレンジのあり方、そしてピアニストとしての卓越した演奏にも強く惹かれ、何となく「これだ!」と思ったのを覚えています。
セルジオ・メンデスは、アメリカで市場を開拓してゆくのですが、常に自分のブラジルの原点を見失わなかったあたりも、いいなぁと思っています。(2015.5.31)
間口が広くて、様々なあり方が混在している「アレンジ」の世界。
私はごく若いころから、漠然と自分のやり方についてのイメージを持っていたのですが、路線ができていくまでのプロセスとして、実は音楽以外の分野からのヒントが、大きな意味を持つこととなりました。
その一つが、小説家田辺聖子の古典文学もの。『源氏物語』や『枕草子』などの名作のリライトものです。
私は高校時代、古文の授業がきっかけで、古典文学に夢中になっていたこともあって、古典を現代に生かす試みには深い関心がありました。
その中で、この「お聖さんの古典文学」はすごいと思った。オリジナル作品をすみずみまで読み込んで、その本質を生かしながら、今の感性で受け止め、楽しみながらも、気づいてみれば深い洞察にいざなわれていくような語り口。
誰にも真似できないオリジナリティーがありながら、決してしゃしゃり出ることなく、原作への敬意に満ちている感じ。
私も、音楽でこんなことができたら素敵だと、強く思いました。
昨年天に召された「お聖さん」は、「真の日本語の達人で、一行も手抜きがなかった」と評された、まさに生まれながらの作家です。
若い日々にファンとして、私淑するように親しんだ田辺作品には、「本当のオトナになりなさいね」と、読者を包み込むように導いてくれる魅力があり、作品で育てて頂いたという実感があります。(2020.3.27:田辺聖子さんの誕生日に。)
編曲には、その元となる原曲が存在します。
どんなやり方の編曲でも、原曲なしには存在できず、その原曲にどのような操作を加えたかということが、編曲のあり方を決めてゆくわけです。
原曲とどんな関係になっているか、つまり、どんな距離感なのか、仲良しなのか、それともかけ離れているのか。
成功している編曲のなかには、原曲よりも認知度が高くなっているものだってあります。
一方作曲となると、こちらには原曲は存在しません。
では、全くの無から創造するのでしょうか。
ご縁あって、アマチュア・フルーティストとしても知られる臨床心理学の河合隼雄先生と、演奏会でご一緒させていただいたとき、リハーサルが終わった後の雑談のなかで、そんな話題が出たことがありました。
「作曲は編曲と違って、全く何もないところから作るわけだから(格が上ではないか)…」というような話になったので、その時作曲者であった立場の私が、「そう見えるかもしれないけれど、我々は生まれた時から大量の音楽情報に触れているわけだから、具体的に真似をしようと思わなくても、そんな漠然とした音の記憶の中から浮かんでくるものではないかと思う。」と言うと、それまで寡黙に会話に耳を傾けていらした河合先生が、突然大きな声で「そうです、その通り!」と言われたので、驚きました。
「意識と無意識というのは、そういうことです。」と、珍しく断言されたのです。無意識のなかに積もった音楽の記憶と対話することで、創作行為が生まれてくる。私はこの考え方が今も好きです。 (2020.8.25)
最近、「編曲」という言葉の語感、音にしたときの響きが何となくイマイチなんじゃないかという気がしています。
「へんきょく」って何となく変?
横文字ではアレンジ。この言葉は最近とてもたくさんの分野で使われますが、音楽の分野のアレンジより、もう少し意味が広い印象があります。
しかし「並べる、整える、再構成する」なんていう訳を見ると、むしろこれは音楽のアレンジの本質についても、よく言い当てているようにも思います。
アレンジの語源は古いフランス語で、元々は「~に向かって兵隊を並ばせる」という軍事用語だという説があります。
結構仕切り屋の仕事なのですね!一見知らん顔して、実は仕切っている感じ。これはまさにアレンジャーそのものです。
それにしても、へんきょく。この語感、何とかならないかなぁ。
失敗すると「変な曲」になる。そうです、そのとおり!気をつけましょう。(2021.11.30)
音楽のアレンジには、本当にさまざまなあり方が混在していて、なかなかひとことでは言い表せないことは、当サイトでも繰り返しふれてきました。
間口が広くて、人それぞれのやり方があるということですが、それでもアレンジャーという体質の人々に見られる共通点というのが、この「雑食性」なのではないかと思います。音楽の雑食性、それはさまざまな種類の音楽を受け付け、表現する感覚があるということ。
これは面白いことですが、うまく使いこなさないと実際のところ難しくなってきます。
雑食性を生かそうとしても、ポリシーにしっかりした芯がないと、音楽は浅くなってしまうし、「便利な人」として消費されてしまいます。元々我ら日本人は、「何々道」とか「何々一筋」というのを好む傾向がありますから、ストイックな世界観のなかでは、雑食性はちょっと居心地が悪かったりします。
でも、雑食性にはものごとを変えてゆく大きな可能性とパワーがあり、それぞれの時代や地域で大きな役割を果たしてきました。
最近はITなどのテクノロジーのおかげで、情報量の処理能力が高まり、複数のことを同時に手掛けることができるようになりました。
昔なら「軽薄」だとか「欲張り」などとみなされてきたことが当たり前になってきて、雑食組もそこそこ市民権を得られるようになったと感じます。
野球の「二刀流」が喝采をもって迎えられ始めた頃は嬉しい驚きでしたが、あれを今更「欲張り」と感じる人はごく少数でしょう。
「二刀流」になぞらえていえば、ゆるぎない自分軸をしっかり意識して、コミットできる範囲をその都度見定めてゆくことで、「雑食性」は素敵な武器になると考えています。 (2022.11.28)
ある時ふと出会い、導かれるように惹かれてゆき、気がついて見れば熱心に取り組んでいて…というパターン。
何かを作ったり研究したりしていると、その繰り返しのような気がします。もしかしたら、生きていくってそういうことかも、とさえ最近思います。
そんなときめく出会いの中から、大きく自分の生き方に影響を及ぼす人や物事が出てきて、それと共に私たちは前へ歩んでゆくのでしょう。
実際に会う機会がない場合は、メンターの役割をしてくれます。
最初は「推し」だと思っていたのが、実は育てられていたなんてことに気づくこともあるでしょう。
チェコの大作曲家ドヴォルジャークは、私にとって、特にアレンジャーの部分でのメンターだったのだと思います。
流麗な旋律の美しさと、本能に訴えかけてくるようなリズムの絶妙なバランス感覚に基づいたシャープなサウンド。
これは私のアレンジャー魂をわしづかみにしました。
特に、使える音の数が限られた室内楽のシェイプアップされた感じ。
若い頃、まだ音楽家として生きることが役割であるという見通しも自信も持てなかった頃、ましてや「女が作曲なんて…」と言われた時代に、なぜか「今やることはこれだ」と、ドヴォルジャークの音楽に食らいつくように勉強しました。
リゾートホテルで夜はライブ演奏をして、昼間は社員食堂でスコアブックと携帯音楽プレーヤー(カセット式のウォークマン!)に向き合った日々。
今も弦楽四重奏曲「アメリカ」やピアノ三重奏曲「ドゥムキー」を聞くとあの時の景色がよみがえります。(2025.3.7)
作曲でも編曲でも、私にとって、音楽は何となく「授かる」ものという感じがします。
遠くの大きな何かが、私の身体を通して作らせているような…?
だから何となく、責任重大…という感じで譜面を書いています。
作(編)曲者の考えを、言葉で述べるべきかどうか。
これも議論の多いところです。「これが作者の考えだ」という感じで、まるでそれが絶対無二の真理?のように一人歩きすることがあるようですが、私はもう少し柔軟に考えています。
まず、いろいろな音楽性を受け入れる器でありたいし、演奏されてゆくことで、音楽は変わり、育ってゆくものという実感を持っています。
私の気づかなかった魅力を、演奏者に発掘してもらいたい、素敵な世界に育てて、私をびっくりさせてほしい、そんな気持ちでいます。
そして、演奏するときにはいつも、わが人生一番の演奏を目指してほしい、と思っています。
一般に、特にアマチュアの方が、わかりやすい作品、楽しい作風の音楽を演奏する時に、「どうせ上手にはできないから、せめてこのくらいで楽しむのがいい」と、何となく自分を卑下した態度に出会うことがありますが、私はこれは違うと思います。ベストを尽くしてこそ、本当に楽しめるもの。
それが本当の喜びではないでしょうか。音楽もきっと、それに応えてくれるでしょう。 (2015.1.12)
何らかの形で音楽に親しむ時、なぜ音楽を、何のために、というとてつもなく大きな問題に、誰しも一度はぶつかったことがあるものだと思います。
職業音楽家でなくても然り、です。
答えは、もちろん人それぞれ違うであろうし、年齢を重ねるうちに変化しながら、一生かけて探してゆくものなのかもしれません。
私は今までのところ、音楽は、広い意味での深い「祈り」なのかもしれないと考えてきました。
祈りというと、宗教にまつわる音楽をイメージする方もあると思いますが、ここではもう少し広い意味での「祈り」です。
では、何を祈るのか。それはたぶん、言葉や具体的なものよりもっと深いところにある何かに届くような、祈り。
静かな音楽ばかりでなく、賑やかな騒音のようなスタイルのものや、本当に素朴な歌とつぶやきの間にあるようなものまで、すべてはこの深い祈りだと思うのです。 (2015.2.20)
音楽が人の心を癒し、元気づけるというのは、よく言われることです。実際感覚的に経験のある方も多いことでしょう。
例えば高齢者施設などで、ふだんはほとんど表情のない人が、昔の歌を耳にして表情が緩んだり、かすかに口ずさむような動きが出てくるのを見ていると、音楽が人間の意識の深いところに語りかける何かを、感じずにはいられません。
でも、クラシックがどうしても堅苦しいと思える人や、或いはピアノなどを頑張って練習した経験のある人が、何かつらい記憶、たとえば失敗したりひどく叱られたりという記憶と結びついている曲がある場合などは、決してそういう曲では癒されないはずです。
また、演歌こそが自分に一番しっくりくるという人もいれば、どうしてもダメな人もいる。そんなとてもパーソナルでデリケートな部分と響き合う音楽の効用を思うと、決して「○○を聴けば癒される」というような安易な世界ではなく、本当に微妙で絶妙な関係なのだと思います。
もし、私の作品を聴いたり演奏したりして「癒される~」と感じて下さるなら、それはこの上ない喜びではありますが、それと同時に、きっと深い部分で何かが通い合っているのかな、という気がします。 (2015.3.22)
いい演奏をしたい、少しでも進歩していたい。プロアマ問わず、きっと誰もが願うことでしょう。
そのためにはどうしたらいいのか、日々試行錯誤するものだと思います。
技術的なトレーニングはもちろん大切ですが、私は、演奏しようとする音楽をどのようなイメージで自分の中で描けるか、ということが、もしかしたら一番大事なのかもしれないと思っています。
楽譜からの情報でも耳からの聞き覚えでも、インプットした情報をどう選んで整理して、演奏つまりアウトプットに繋げてゆくのかということ。
練習やレッスンなどでは、出てきた音つまりアウトプットの結果について、検討するケースが多いと思いますが、私はその一歩手前、音になる前のイメージをしっかり持てるような指導や練習が大切だと思います。
楽譜の通り間違いなくできていても、音楽としてなんかおかしいという時に、先生の演奏を聴いて、ああこういう意味だったのかと修正する。
これは当初のイメージ作りがイマイチだったということでしょう。
これはある意味とても難しいことですが、音楽の個性の源はここだと思います。
一方、アウトプットの視点をちょっと変えた、面白いことがありました。
絵の得意な生徒に以前、別のアウトプット、つまり曲から広がるイメージを試しに絵に描いてもらったことがありました。
当時まだ小さい子供だったのに、その豊かな世界には本当にびっくり!出てきた音だけからは計り知れない深い世界が、内面に広がっていたことに気づかされたのですが、時には、こんな成果もありかなと思うのです。(2016.2.28)
最近時々耳にする、リテラシーという言葉。リテラシー literacy とは、読み書きの能力のことを指します。
「日本の識字率は、世界の平均85.9%を大きく上回り、大体99%」などという統計が、ネットで調べると出てきますから、文字情報のやりとりについては、今のところ不安はほとんどない状態と言えるようです。
しかしこれが外国語となると、耳から覚えてしゃべることは一応できるけれど、かっちりした書き言葉になると…という状況は、容易に想像がつきます。
音楽にも実は、同じことが言えます。音楽の読み書きといえば、楽譜。
楽譜なんて読めなくてもいい?そう、確かに自分で楽しむだけなら(或いは即興演奏なら)、それもありだと思います。
でも、文字の場合を想像すると、もし文字情報を使えなかったら、伝達の範囲はごく狭いものでしかなくなってしまいます。
音楽も耳コピーだけで済むのは、仲間内での生演奏と、録音で記録する時くらい。
ただ、耳のいい人は往々にして音の記憶力も抜群で、頭の中に膨大なデータがあることも多いのですが、それでもやはり、楽譜の持つ客観性と保存性には敵いません。
楽譜で作品を発表している私の我田引水?そう思われても構いませんが、私も実は中学生くらいまでは、読譜が苦手だったのです。
今でも耳コピーの感覚は大事にしているのですが、だからこそ、楽譜のすばらしさが身にしみています。
楽譜を読みこなすには、ちょっと修業が必要で、できればいい指導者につくことをお勧めします。文字の読み書きにも、言えることですね。
(2018.3.22)
今の時代、もしかしたら最もよく使われ、効き目のある言葉が「忙しい」かもしれないと思っています。
「忙しい人」って偉い、みたいに。特に我々音楽家のような自由業・自営業は、暇すなわち仕事がないことですから、忙しくなきゃダメ、という強迫観念に近いものが業界全体にあるような気もします。
仕事柄、集中して勉強できるまとまった時間を取ることが必要なのに、大人になるとこれを確保するのが難しくなってくるという現実もあります。
「あ~忙しい!」と叫びたくなるような現実が。
だからこそ、あまのじゃくのようですが、私は「忙しい」という言葉を意識して使わないようにしています。
自分は忙しいと思ってしまうことで、何かそこから先へ行けなくなるような気がするからです。
同じ量をこなすにしても、淡々とこれを片付けるんだと思ってやるのと、忙しがってやるのとでは、質が変わってきます。
自分にこなせる量を超えているなら、別の方法を考えるという選択も、忙しがっていると、何となく敗北感が伴う気がします。
できなかったのではなく、今回やらなかったのだという思考に到達するためには、忙しがらないことが大切だと、最近特に思います。
でも、忙しそうな様子をしていないと「暇なんだ」と思う人々も一定数いますから、そんな時には「忙しいから!」と、スパッとやるのも大事なことだとは思いますが。(2018.6.19)
歌でも楽器の演奏でも、よく「うたう」のが大切だと言われます。
「もっとうたって」とレッスンなどで言われる方も多いのではないでしょうか。
演奏が乗ってくると音楽の世界に入ってゆく感じになり、うたう感じがつかめてくるものですが、ここで音楽に流されてしまうと、やりすぎになったりして、何となくしまりのない演奏になってしまいます。
自然にうたうのは、専門家にとっても究極の課題なのかもしれません。
カンタービレ Cantabile というのは、まさにこの「うたうことをしっかりやってください」、という指示ですが、これはやはりイタリアの人たちが得意とするところです。
生来体質的に備え持っているのかも、という気もします。
拙作の『マダム・バタフライ奇想曲』を、ミラノ・スカラ座の首席フルーティスト マルコ・ゾーニさん率いるイタリア人グループで演奏して頂いた時(2017年)には、ああこれが本当のカンタービレかと、心が震えました。
もちろん、音符の書いてある部分のうたい方、フレーズの処理の仕方もそうなのですが、驚きと共に気づいたのは、実は音の鳴っていない休符の部分を Cantabile に感じたこと。
そうか、イタリアの音楽というのは、休符のところもカンタービレなのだ、音楽と共に進む時をこういう風に捉えるものなのかと、いわばカルチャーショックをもって学んだ思いでした。(2020.6.5)
2021年は、東日本大震災から丸十年。震災が起きた3月には、震災について様々なメディアでたくさんの人たちがいろいろなコメントをして、情報合戦のような様相にもなりました。
丸十年という数字は確かにきりがいいので、何となく一区切りのような振り返りも多かったなか、私は今一つこの情報発信に積極的に加担する気持ちになれずにいました。十年と言っても、特に被災された方々にとっては単なる通過点なのではないか、と思っていたからです。
震災のように、自分でコントロールできないところで起こってしまう、つらい出来事。被災者から時に発せられる「自分ごととして考え続けてほしい」という発言には、とても重い響きがあります。これはコロナ差別の問題や、種々のいじめなどにも通じるところだと思うのですが、そういう避けられずに起こってしまう出来事を、当事者でない世間一般が「他人事」で片付けがちになる傾向について、先日なるほどと納得できるコメントに出会いました。
それは、日本人の「穢れ」という発想から来るのではないかという意見。
災難に遭ってしまったことそのものを、日本人は潜在的に「穢れ」と認識し、それを避けたがる。
震災の被災者でなくても、自らの体験に照らし合わせて思い当たる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「東北を忘れないで」「風化させないで」そのとおりだと思いますが、私たちは根本の穢れ感覚を切り替えることができて初めて、そういう視野が持てるのかもしれない。
このウエブサイトのトップページの片隅には、「災害で被災された方々の復興を、心よりお祈り申し上げます。」という言葉を、ずっと載せています。
何年経っても、どんな災害でも、そう、心の災害も含めたあらゆる理不尽な出来事について、そう祈りたいのです。
音楽がそんな思いを浄化する役目が少しでもできるとしたら、音楽家として本望かもしれません。
(2021.7.30 : 2021.3.29トップページのブログコーナーの記事を若干修正)
縁あって、「育ての親」といえるフルーティスト故・齊藤賀雄さん(読売日本交響楽団首席奏者:当時)に声をかけて頂いたのがきっかけで、気づいてみればフルートの世界に関わらせていただいてからずいぶんの年月が経ちます。
元々何となく「笛」が好きではあったのですが、それは音を出す構造がとてもシンプルであること、つまり口を笛の吹き口に直接つけて息を入れるだけという仕組みに何となく惹かれていたのかもしれません。
フルートもまさにそう。息を吹き入れ、自分の息だけで音を作る時、何となく心の奥にある何かが笛の音にのって開放される感じがあります。
そんな魂から直に出てくるかのような、ちょっと生々しい感覚がある一方で、フルートで奏でられる音楽はそれに反して、どこか現実世界を突き抜けたような、独特の高みを目指す感じがあります。
これはきっと科学的に考えると、フルートという楽器から出る音の組成(倍音をたくさん含んでいない)によるところも大きいと思うのですが、私はこの生々しい発音原理と現実を突き抜けた高みを感じさせる音楽というギャップが、この楽器の最大の面白さだと感じています。
心の奥からはるか高みへ一気にワープできるような感覚が、ちょっと魔法のように感じられるのです。
フルートを吹くとき、初めはどうしても力んで息をたくさん使おうとしてしまうものですが、そうするとすぐに疲れてしまっていい音にはなりません。
それぞれの音域でよい響きの音を出すにはちょっと訓練が必要ですし、熱くなりすぎてはダメで、冷静なコントロールが求められます。
何だか心の奥にあるものを出す時のプロセスにも似ていますね。
(2023.8.13)
コロナ禍の行動規制が解けて間もない2023年夏、作曲家中田喜直(1923~2000)の生誕100年を記念して、その功績をしのぶ大規模な展覧会が、氏とゆかりの深い横浜で催されました。
「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」など、誰もが口ずさんできた美しいメロディーは、今もなお日本人の心の核心をゆさぶるような、世代を超えた愛唱歌と言えると思います。
たぐいまれなメロディー・メーカーであると同時に、氏が実は藝大時代はピアノを専攻し、ピアノにはとてもこだわりがあったことは、知る人ぞ知る事実かもしれません。
展覧会の入口に置かれていたのは、氏が提唱した「細幅鍵盤ピアノ」。
ピアノが量産される時代になる前は、ピアノの鍵盤の幅(大きさ)が、実は楽器によって違っていたことも、あまり知られていませんが、今は規格サイズに手を適応させてゆく必要があるわけです。
つまり十分な手の大きさがあるかどうかが問題で、日本人はこの条件を肉体的に満たすのがなかなか困難であることから、「手が小さい」ことを「劣っている」こととみなす傾向は今も根強くあります。
小柄だった氏もこの問題を抱えておられたわけですが、そこを逆手にとって、楽器の方を日本人の体格に合わせてはどうかという提案をして、実際に規格より細い幅のピアノを作ってしまったというわけです。
私はぜひこれを弾いてみたいと以前から強く思っていて、ついにその機会が訪れました。
ここで恥ずかしながら告白する必要があるのですが、中田喜直先生といえば、私が中学の時にピアノ伴奏で出場したNHKの合唱コンクールの最終(録音)審査の審査員でいらして、その時私の演奏に好意的なコメントをしてくださったという、まさに私の人生が大きく動いたご縁があるのです。
この細幅鍵盤ピアノは、草津の別荘に置かれていたものだそうですが、よく手入れがされていて、やわらかで芯のある音。
よく耳をすまして弾けば、自然にそのよく伸びる音に導かれて、素敵な音楽になってゆくような感じがします。
「ちいさい秋見つけた」を弾きながら、ああ、これが中田先生のピアノの音かと、生前お会いすることはなかったけれど、やっとお会いできたような気がして、気づけば昔のコンクールの課題曲の冒頭を弾いていました。「先生、私覚えていますか…」
音楽の力、その不思議さにずっと導かれて生きてきたのかもしれないと思いながら、切ない素敵なひとときが過ぎてゆきました。
(2024.1.31)
マルチタスクという元々はコンピューター用語を、最近あちこちで目にします。
研究成果の著しい脳科学の分野などでも、脳が一度にたくさんの作業をこなすことを指し、これが実は脳の使い過ぎを招き、さまざまな心身の不調の元凶なのだとさえ言われるようになりました。
なるほど。効率を上げるための「ながら○○」は、思いのほか消耗しているのだと。
確かに時短の極みのマルチタスクだとすると、ちょっと世知辛い感じがします。
本来リラックスするために流しているつもりのBGMも、実は厳密にはマルチタスクなのだとか。
人はBGMを潜在的に「聴いて」いるという説には同感する私ですが、これは耳からの情報にどのくらい敏感かどうかにもよるかもしれません。
前号で触れた作曲家中田喜直先生は、社会活動家の顔もお持ちで、実はBGM反対論者でいらしたと聞くと、これもなるほどと思えます。
私もカフェなどで静かに流れるジャズなどには、くつろぐ感覚を覚えますが(聞き流してはいない)、同じ音楽でも音量が大きめだとイライラしてきます。
私は車の運転が結構好きなのですが、このマルチタスク論を知ってから、ためしに車の中で音楽を聞くのをやめてみました。
音楽に気を取られるリスクに思い至ったからです。
するとこれが想像以上にすっきりした感じがあって、いいのです(ただし眠くなったときは、ラジオを大きめに流しますが)。
情報過多が想像以上に脳を圧迫するなら、情報も断捨離して本当に必要なものを選んでゆく。
これは私のような中高年世代に限らず、コロナ禍を経験した時代のなかの確かなひとつの潮流になってきていると思います。
(2024.9.5)
トップページのブログコーナーで2024年12月にお知らせした本の情報ですが、永久保存版としてたくさんの方々に読んで頂きたく思い、こちらのコーナーに引っ越してきました。
若い頃から欧州で高い評価を得て、圧倒的な量の演奏活動を続けてこられた園田高弘氏も、実は欧州で育まれた西洋音楽と、日本人という自分のルーツのはざまで格闘を続け、自分のやり方でそれを克服すべく奮闘されてきたこと。
その様子が手に取るように分かるこの本は、音楽に携わるすべての人に勇気と知恵を与えてくれる一冊だと思います。
その研究者のようなセンスにあふれた勉学ぶりと、実践感覚への徹底したこだわりが両車輪となって、人間ソノダを高みに押し上げた、その世界を覗いてみませんか。
(2024年 文芸社刊 1,650円 [税込] ) (2025.2.18)
園田高弘氏(1928~2004)が、日本の国際的ピアニストのパイオニアであり、終生トップランナーとして、長年音楽界に君臨したマエストロであることは、誰もが知るところだと思います。
氏の没後20年に当たる今年、愛弟子である音楽評論家の原明美さんが、長年の構想であった園田氏の長大な回想録を、満を持して発表されました。
内容は、氏の多岐に渡る活動の詳細な記録にとどまらず、音楽に取り組む姿勢や、作品への見解をまとめたもの、さらには指導者としての尽きぬ情熱に裏打ちされたさまざまな挑戦など、本当に盛りだくさんですが、そんな中でもやはり、愛弟子である原さんへのレッスンの風景や、使った教材などは、まさに手の内が明かされた感じであり、ピアノに何らかの形で関わる方には、ぜひとも傍に置いてひもといて頂きたい一冊です。
マエストロにふさわしい超人ぶりに圧倒される部分も多々ありますが、同時に氏の飾らない人間性や、芸術への良心からあえて一匹狼を貫かれた精神性も垣間見ることができ、「人間ソノダ」の面が見えるのは、やはり親交のあった著者ならではのことでしょう。
実は、原明美さんは、私の大学時代の同級生で、数十年経った今も「持つべきものは良き友」とお互いに認め合える、得難い真の友人のひとりです。彼女らしい素直で控えめな語り口は、評論家として磨かれた読みやすく深みのあるものであり、読み手の気持ちにそっと寄り添ってくれることと思っています。
(トップページ「ブラフの丘から」2024.12.4)
演奏仲間、つまり私の譜面を演奏してくれた来た演奏家との絆は本当に私にとって特別なものだという想いを最近強くしています。
特に一定期間、演奏旅行なども含めて一緒に活動した経験のある演奏家の公演は、何ともいえない感慨があり、その場にいるだけでかなりエネルギーが出入りする、つまりは消耗すると同時にリフレッシュされてチャージされた感じになります。
このサイトの Gao Forever! のコーナーにも登場されているクラリネットの四戸世紀(しのへせいき)さんが先日ソリストとして登場された、モーツァルトのコンチェルトは、本当に素晴らしくて、この演奏を聴くためにこの人との出会いがあったのかなと思えるようなひとときでした。(2025年 3/23 みよしシンフォニエッタ公演、於:コピスみよし)
この協奏曲は、クラリネット奏者にとって特別な意味のあるもので(つまり難しい)、特にゆっくりした2楽章は、深い祈りというか、人智を越えたものに対してひざまずくような精神性を表現できるか、という高い音楽性を求められます。
ベルリンでキャリアを積まれ、帰国後読響で活躍されたのち、70代に入られた今も、なお引く手あまたの四戸さんですが、この日はこの2楽章を「何としても決めるんだ」という彼の強いパッションが感じられ、それがもう会場すべてを巻き込み、観客含めて一体となった音楽となり、この世もあの世も超えたような、まさに奇跡のようなひとときになりました。
2楽章が無事過ぎたら、続く3楽章はもうそのまま快走されて、ああこれがコンチェルトということかと。「この曲を吹くのはもう最後かもしれない」と仰っていた四戸さん。
鳴りやまない拍手喝采のなか、その納得の表情からは、ご本人も手ごたえを得られたのだなと思いました。
会場はちょうどGaoさんの墓所のある新座市と至近距離。
それも意味ある偶然のように思え、生涯忘れられない輝く時間(とき)とは、こういうことなのでしょう。
(2025.4.20)
個々の楽曲について、楽譜の前書きからちょっとはみ出した話題をお届けしていますが、このコーナーはちょっと特別な背景を持つ曲たちのスペシャル・ヴァージョンです。
"The Four Seasons" Homage to our motherland Japan / Arranged by A.Nanase (2Flutes) MOS No.47 (2011)
日本ならではの季節の風景に、心の原風景を重ねる音楽の旅。都会育ちの人でも、旅先や郊外で昔ながらの日本らしい風景に出会うと、なぜか懐かしい気持ちになるのは、やはり何らかのDNAが関わっているようで、不思議な気がします。音楽は、そんな原風景を豊かに照らし出してくれますが、楽譜の「S」の部分150小節目から、こっそり「ふるさと」のメロディーが入っていること、気づいてくださっていると思います。
ここが、綺麗なピアニッシモで決まると、いい感じになると思っています。 (2015.3.11)
…抒情歌のメドレーは、やはり背景にこの春の東日本大震災が大きくあり、犠牲者への鎮魂、震災からの復興、そして新たなる日本再建への思いをこめてまとめました。
抒情歌をつなぐ四季のフレーズは、故・河合隼雄先生のために書いた、拙作の室内楽組曲『巡礼』(初演2004年)に、トーンが似ているかなとも思います。
(『ろここ通信』No.82 2011.8 より)
Composed by A.Nanase (3Flutes) MOS No.47 (2011)
二度と帰ってこない「今」という時が、光に包まれて降りてきた天使たちとともに、安らかな眠りに落ちるように過ぎ去ってゆく。
今を懸命に生きる、すべての大人たちに贈る子守歌。
楽譜の47小節目、第二フルートの3拍目の頭のgは、fのミスプリです。
私の「育ての親」に当たるフルーティスト故・齊藤賀雄さんと、そのグループで長年演奏してきた曲を、ムラマツ・オリジナル・シリーズのために、氏の追悼企画としてフルート三重奏に仕立てたものです。
元々の題は「昨日にベルスーズ」でしたが、出版に当たって改題しました。
(楽譜の表紙には、日本語の副題の方が掲載されていますが、目次にあるように、Lullaby for Yesterdays がメインのタイトルです。)
(2017.10.29)
…この曲に、(齊藤)氏はいつもの親しみをこめた憎たれ口で「ベルズーズ」という仇名をつけ、いろいろな楽器の組み合わせにして(つまり、その都度譜面を作り直す!)、あちこちで数えきれないほど演奏しました。
…読売日響の室内楽仲間に可愛がってもらってきた幸せな曲なので、追悼というよりは、氏が生きた証しを秘めた曲として、たくさんの方々に末永く愛奏して頂ければと願っています。
(『ろここ通信』No.82 2011.8 より)
Delicato in the manner of Korea / Composed by A.Nanase (3Flutes) MOS No.50 (2012)
’93年に初めて韓国を訪問した時の印象をつづった曲。はじめはファゴットの曲として書き下ろし(原題:デリカート)、私の「育ての親アンサンブル」にあたる、読売日響首席木管アンサンブルの公演でも、ファゴットとピアノで何度も演奏してきました。
当時はまだ「韓流」という言葉もなく、コリア Korea の世界はまだ珍しいの域を出ない感じでしたが、名手山田秀男さんの魔力的なとろけるような音に、東洋的な世界が絶妙にかみ合い、個人的にはとても気に入っていた曲です。
またこの曲は、私が音楽活動を始めた当初から様々な形でご支援いただいてきた、池 明観(ち・みょんくゎん)先生(1924~2022 宗教哲学者:'90年代後半、金大中政権のブレーンとして日韓文化交流の礎を築かれた要人)への感謝の思いをこめた献呈曲というべきもので、私にとっては、演奏するたびに、「韓国のお父さん」池先生とご一緒したソウルの鮮やかな秋晴れの光景が浮かぶ、思い出深い曲です。
(『ろここ通信』No.84 2012.11 を一部修正 2022.1.5)
朝鮮半島の民族音楽のフィーリングを意識してはいますが、だからといって、演奏する際に無理にこじつける必要はないと思います。
当時ファゴットの山田さんにも、そのようにお伝えして、自分のフィーリングで、とお願いしました。
彼も、「今も強く印象に残る、大好きな曲」とコメントしてくださり、有り難く思っています。
フルート合奏では、リズムを決めるのが難しく感じるかもしれませんが、素敵な演奏に仕上げて下さるのを期待しています!
(2014.11.28)